浜ちりめんの歴史


今より数千万年の昔、富士山が出来たと同時に生まれた琵琶湖の東北岸に栄えたこの郷土今浜は日本の中心に位し要害の地でもあった。戦国の世(1478年応仁の乱平定後より戦国時代となる)豊臣秀吉が天正年間この地を選び居城とし長浜城と名銘し城下の民に仁政を施し、この地を長浜と改名し今日に及んでいる。
 湖北平野を貫いて流れる姉川を境に戦った姉川の合戦に湖国の名将と唱われた浅井長政も戦利あらず敗走し、天正元年(1573年)小谷の城に立て篭もり押し寄せる織田、徳川の数万の大軍を邀撃したが一族郎党屍山血河で玉砕した。
 丁度その頃、大阪の南泉州堺へ大明国の職工が渡来して(1573年〜1591年天正年間)チリメン織りの工を伝えたと記されて居り、郷土の英雄浅井一族の滅亡とチリメンの伝来が時を同じくしていることも、のちにそのちりめんが東浅井郡に伝わったことにも、深い因縁を感ずるのである。

長浜城 豊公園噴水広場より撮影

秀吉の最初の居城 長浜



ちりめん技術の伝播経路
 堺の縮緬が栄えたのは主として信長の時代であるが、やがて秀吉が天下を統一した頃にはその手厚い保護により最大の市場であった京都にその地位を奪われてしまったのである。その後、徳川の天下となり享保年間(1716年〜1735年)には京都西陣より丹後の加悦に伝わり、殆んど時を同じくして岐阜(1720年頃とあり丹後、加悦と同じ頃と思われる)、次いで宗山(現在の峰山)に伝わり、(1751年〜1763年)同時に長浜(1751年〜1752年)に伝わり今日の繁栄の礎となったのである。このように織物機業が次々と全国に伝播された。
 特に当時の長浜地方は我が国文化の中心であった京都に最も近く、東海・北陸等に達する交通の要路があって、縮緬・生糸等の消費地に恵まれ、その売捌きにも便利な地歩を占めていたのであるが、彦根藩所領が確定する迄は天領(国の領地)となっていた為、幾多諸侯の分割所領、又は支配置があって住民はその苛政に苦しめられ、到底農業のみを以っては租税を納めることが出来ず、副業によってその生計を補わねばならなかったのである。
 やがて彦根藩主の所領となったが永年の搾取圧政により、町民・農民は困窮甚しものがあった。藩主もこれを察し、藩の財政立直しのため商工業の発展には特に保護育成の策をとった。林助、庄九郎が手厚い保護を受けたのはこのためである。
林助、庄九郎が4年有余強訴の罪により二条の獄舎に幽囚されたことが古文書並びに浜ちりめん創設記念碑にも書かれているが、寛延3年(1750年 宝歴の前)「百姓の強訴を禁ず」の布達が出て、翌年の宝歴元年のことであることを考える時、両人が如何に堅固なる決心で強訴に及んだかが想像され、その偉業に低頭せざるを得ない。
 浜縮緬を始め全国縮緬の伝播経路を当時の文献をもとに上記に付記し参考としたが林助、庄九郎が獄舎に幽閉されたのが宝歴元年(1751年)と推定される処から恐らく西陣から長浜へちりめん製織技術が伝わったのは丹後峰山に伝わったのと殆ど同時代に宮津の蚕糸商が加悦のちりめん織り技法を伝授したものと考られえるのである。
又、古文書(古事記及び風土記)によれば、縮緬産地として繁栄したこの長浜地方は古く元明天皇の和銅5年(712年)「近江、越前・・・・・・の20ヶ国に令して始めて綾絹を織らしむ」とあり、その後、光孝天皇の仁和3年(887年)「尾張、美濃、伊豆、近江、・・・・等の国より絹を貢す」とあり、又、絹布重宝記には「浜羽二重(浜絹とも云う)は江州長浜より織り出す絹なり、加賀絹よりは格別糸性良し、惣て長浜より織り出す類何によらず上品なり、丈は長く染付けは羽二重つやのあるものなり」とあり、平安朝時代における全国48ヶ国の蚕糸優良度別の記録によれば、上糸(12ヶ国)中糸(25ヶ国)下糸(11ヶ国)の内、上糸生産国の筆頭産地として知られた輝かしい歴史を有するのであり、これらを考察する時、この長浜地方はいにしえより織物業が盛んであったこと、並びに豊富にして然も優良なる生糸を使用した結果、当時より其の品質が他産地のものに比し断然異彩を放っていたことが伺われる。何れにしてもこの郷土長浜地方が往昔より朝廷から特に撰ばれ、常に宮廷衣料製織の御下命を受けていた我が国機業の大宗として栄え、その名を天下に知られていたことは一つに風土の関係と日本最大の大湖、琵琶湖の有つ世界屈指の軟質、良水の賜であり、他面、日本の中心に位し交通の要路にあったこと等、幾多他の模倣出来ない環境に恵まれた結果であって、今日この浜縮緬が白生地界の最高峰と称えられている所以である。
旧 浜ちりめん創製記念碑
浜ちりめん創製記念碑(旧)
新 浜ちりめん創製記念碑
浜ちりめん創製記念碑(新)
長浜八幡宮境内
中村林助と林庄九郎

宝歴2年(1752年)に、江州長浜町の北郊浅井郡難波村(現在、滋賀県長浜市難波町)の中村林助および乾庄九郎(一時権太夫ともいった)の二人によって創められたとされている。当時姉川と高時川の合流地域にある難波村は毎年水害を豪り、年貢米に窮することもあり、また養蚕地帯でもあった関係上、糸値が下がって至極困窮していたので、その打開策につき苦慮していたところたまたま蚕紙商売のために当村および近郷へ毎年来て馴染になっている丹後宮津の庄右衛門という商人から縮緬製織の有利であることを聞き、これを農間の内職に取り入れることを思い立ったのである。そして広く村内の婦女子に修得せしめようと考え、宝歴2年(1752年)12月、彦根藩北筋奉所に願い出、 その許可をえた。かくして縮緬機業の技術は移植され、次第に普及し、同年内に機業家15軒、機数20台、生産高70疋に達した。


中村 林助と生家


九代目当主 中村林助と生家
 この頃、(宝歴年間)京都に市場を求めて、買先店方7軒を設けて売り出ししたが、西陣の機業者達は田舎端物の京進出は自己市場の独占権を脅かすものとして、浜ちりめんの京都移入の禁止方を京都二条役所に訴え出た。この願いは容れられて浜ちりめんの京都進出は、発足早々障害に当面した。これは林助・庄九郎にとって大打撃であったに相違なく、両人は百方手を尽くしてその解除のため奔走したようである。長浜の浜ちりめん創製記念碑には、両名は強訴の罪によって4年間二条役所の獄舎に幽囚されたことが記されている。
 さて、宝歴5年(1755年)林助および庄九郎は彦根藩に対して、浜ちりめんが丹後ちりめん・上州紗綾ちりめんなどと同じく、京都での販売の道が引かれるように援助を哀願した。彦根藩では願書を受理し、障害打開策を講ずるための調査を京都彦根藩邸の御賄役山根善五右衛門に命じた。この間、近江屋喜兵衛・林助・庄九郎らは日夜目的達成のために奔走し、種々の手段を講じた。宝歴9年(1759年)3月17日付
の文書には京都町奉行所の役人へ江州ちりめん2巻・金子3000疋など贈ったことが記され、西陣との独占権との抗争に際して林助・庄九郎が行った裏面工作のほどが推測される。
かくして京都町奉行所の方針も漸次変更され、宝歴9年11月浜ちりめんは京都市場に移出することを許可されることとなった浜ちりめんはこのように彦根藩の厚い保護によって京都市場という重要な販路の獲得に成功することができたが、同時にちりめん機業の主導権は藩によって握られ、以後維新までその枠の中で発展していくことになったのである。
 宝歴10年(1760年)彦根藩は林助・庄九郎を織元に任命した。林助および庄九郎はすでに織機5台をそれぞれ所有していたが、国産売出しの功により藩から与えられたこの織元という名称は普通にいわれるような企業者としての地位の公認ではなくして、藩のために製品を検査しこれに検印を捺す役目であり、この代償として印料を徴収する特権を認められたものである。
 林助・庄九郎とともに、障害の打開、市場の開拓に貢献した京都の近江屋喜兵衛に対しては、藩は「江州縮緬売払所」を委嘱した。すなわち、織屋から上せてくる商品に対する掛目検印所としての機能の他に取次売捌き方の独占権を与えたのである。
参考資料          
浜ちりめん創設20周年記念誌
浜ちりめん創設40周年記念誌